〈プロローグ〉森下元康の活動史
青年教師、中学校のクラブ活動で『リードバンド部』結成
24歳の国語教師、森下元康が『豊橋市立羽田中学校』に赴任した1961年(昭和36年)、日本の庶民はまだまだ貧しい時代だった。校長から「ブラスバンド部を作りなさい」と言われたが、学校にある楽器は、空気が漏れるアコーディオン2台と、音楽室のピアノ、あとは音楽の授業で使うサカホン(ハーモニカの一種)しかなかった。予算はほとんどなく、近隣の小中学校にある楽器を片っ端から借り受けた。ヴァイオリンやヴィオラ、チェロのような高価な楽器は夢物語で、教える先生さえいない。オーボエもバスーンも、ホルンもチューバもティンパニーもない。それでも青年教師は、何もない状態からリード楽器を中心とした合奏団を創り、クラシック音楽など全く経験のない中学生たちと、まるで夢のかたみを追うように音楽創りに情熱を注いだ。そして青年教師の“魂の飢え”から出発した貧乏合奏団は、初めて参加した翌年のコンクールで全国優勝を果たした。それはまた、豊橋という日本の地方都市に『市民オーケストラ』を誕生させ、やがて世界の連盟組織にまで広がり続けるアマチュアオーケストラ活動の序奏でもあった。
クラブ活動から市民オーケストラへ、そして『東京公演』を挙行
“真に価値あるもの”を求めて無我夢中で取り組んだクラブ活動だったが、いよいよ生徒たちの卒業を迎えた時、森下の胸中に名状しがたい不安が芽生えた。いくらコンクールを目指して猛練習しようと、河をせき止めなければダムにならないし、単なる中学校の想い出でしかなくなってしまう。今、私たちが豊橋に市民オーケストラ結成の第一歩をしるさなければ、他力本願でできるわけがない。森下はOBたちを集め、地域や財界に理解と協力を求めて奔走し、1965年、数多くの反対と困難な条件の下に『豊橋リードフィルハーモニー交響楽団』が発足した。
そして発足から6年目の夏、このアコーディオンを中心とした地方の市民オーケストラが『東京公演』に挑む。「なぜ東京で、なぜリードフィルという形態で、なぜアマチュアなのに……」。周囲からは反対と揶揄の連続だったが、森下にとってはアイデンティティにかかわる、存在の証明であった。そして公演は成功をおさめ、世間に様々な波紋を投げかけ大きな反響を呼んだが、それ以上に、全国のアマチュアオーケストラとの交流が始まり、JAO設立への契機となったことが画期的であった。
『日本アマチュアオーケストラ連盟』の設立、フェスティバルの開催
1971年の日本のアマチュアオーケストラはまだ創成期で、後の勃興期を迎えるまでにはさらに十年の歳月を要した。当時のアマチュアオーケストラ活動は、各地に点在する指導者たちの孤軍奮闘で、社会からは異端視される少数派だった。森下は豊橋リードフィルの『東京公演』をスプリングボードとして全国の同志に100通を超える手紙を書き、これをきっかけに豊橋をキーステーションとする交信が始まった。誰かがやらなければ舞台は回らない。1972年、森下は列島の連携を求めて『日本アマチュアオーケストラ連盟(JAO)』の設立を提唱し、23団体が集った豊橋の地でJAOは細々と誕生した。
そして翌年には『第1回全国アマチュアオーケストラフェスティバル 豊橋大会』の開催にこぎつけ、終演後には別れを惜しむ窓ごしの握手と涙でバスが発車できないほどの連帯が生まれた。こうして貧者の一灯とも言うべき記念すべき大会は船出をし、以後全国フェスティバルは列島各地を転々として毎年開催され、開催地のホストオーケストラは全国の仲間を迎えることで団内の結束が高まり、活動の意義を再確認する活性化の機会となっている。
青少年への情熱、『トヨタ青少年オーケストラキャンプ』の開催
1980年から始まったJAOとトヨタ自動車株式会社との後援提携により、『トヨタコミュニティコンサート(TCC)』が全国各地で展開されるなど、JAOは発展期を迎えた。1985年には『トヨタ青少年オーケストラキャンプ(TYOC)』を創設し、音楽を通じた地域音楽活動のリーダー養成を目指した研修合宿を始動した。森下はここで指揮をしながら文化活動を語り、励まし、「少しばかり技術が上達したくらいで思い上がるな」と檄をとばした。森下と青少年たちとの、互いの夢と情熱をかけた真剣勝負だった。
第1回TYOCで森下は参加者にこう語りかけた。
「私が願っているのは、その土地その土地すべてが文化的に花開いて、皆さんが大人になったときに日本中が本当に仲良く、腕比べのような文化活動ではなく、お互いに思いやりのある、苦労がわかってあげられて、自分の情熱をぶつけられる活動手段を創ってほしい。そういうことは、きっと私が生きている間には完全にはできないと思います。だからどうか、続けていってください。私たちのあとを続いて。ここで学んで技術は成長したから、もう一個上の大きな音楽人になってください。」
地域に根ざした市民オーケストラを目指して
アコーディオンを主体とした市民オーケストラを結成して10年、いよいよ悲願のヴァイオリン、ヴィオラを導入する決意を固めた。中学校に入って初めてヴァイオリンを手にした生徒たちは、森下とともに猛練習を重ね、三年後にはブラームスの交響曲を奏でた。しかし同時に、アコーディオンのメンバーとの身を裂かれるような惜別に、森下は慟哭した。
『豊橋交響楽団』と改称して編成を充実し、地域のオーケストラとしての活動の幅も広がった。小中学校や山村、離島への巡回コンサート。駅前のデッキや、病院、刑務所でも演奏した。市民とともに『第九』を謳い、初めての市民オペラも上演した。親しみやすいプログラムを満載したポップスコンサートや、市民が主役となる長期的な国際交流フェスティバルを官民一体となって取り組む企画も提唱した。
こうした市民活動において熱意のない演奏をしたり、片手間な態度で臨むことを森下は楽員に強く戒めた。たとえ観客が一人だったとしても、全員全力で演奏する。それが森下活動論の真骨頂だった。
常に前進し創造する市民文化活動、地域に根ざした市民オーケストラの存在意義を求め続けた。
地球が交響する日を夢みて、『世界アマチュアオーケストラ連盟』設立
森下が日本の連盟組織を創りたいと唱えた時、周囲は仰天して猛反対した。そして世界の連盟組織を創りたいと言い出した時は、一同呆れて唖然としていた。国内でも世界でも、様々な文化的土壌と歴史伝統をもつ諸団体をまとめるには、微塵ほども恣意があってはならない。数多の障害があったにせよ、森下が世界にまで活動の輪を広げられたことは、その精神と活動論が無私の道を求めるものでなかったならば、決して成し得なかったであろう。
1991年のTYOCから青少年の国際交流が始まり、そこに同行した9か国の指導者で『世界青少年オーケストラ協議会(WYOC)』が結成され、森下は委員長に就任した。そして15か国の交流にまで広がったWYOCは、1998年に『世界アマチュアオーケストラ連盟(WFAO)』として発展的改組された。WFAOはその後も世界各地でフェスティバルの開催や国際会議、世界規模での交流や情報交換を継続し、日本は森下の意志により、ニュートラルな立場で集いの場所と機会を提供する役割を担っている。また2007年にはNPO-WFAOも設立し、アジアを中心とした積極的な交流も始まっている。
音の泉は広がり続ける
順風満帆なことなど一度もなかった。初めから理解を得られることもなかった。それでも理想の灯を掲げて旗を振り、渦中に人を巻き込み、アマチュアオーケストラの方向性を模索し続けた。『音の泉の広がりを』の旗印を掲げて設立したJAOは、悲願の法人化を果たした。コンクールで競い合うのではなく、仲間とともに演奏することで哀歓を分かちあうという森下の初志は今も引き継がれている。
2000年には、高齢化社会を積極的かつ肯定的に先取りしようと『日本マスターズオーケストラキャンプ』を創設し、JAOにおける生涯教育の基盤も確立した。ドイツの連盟との友好協定やWFAOの発展で、音の泉は縦横無尽に広がり続けてきた。
森下元康は人生最期の時間までアマチュアオーケストラの発展を祈り続け、2010年5月に永逝した。魂の打点の高い生涯だった。最期まで魂の飢えを失わなかった。でも、まだまだ道半ばだった……。
今後活動を引き継いだ我々は、“新たな地平”を目指してさらなる理想を追求し、深い思索と幅広い運動、そして自己との孤独な闘いを不断に続けていかなければならない。もっと深く、もっと広く!