【第1回】アマチュアオーケストラ活動・文化活動論①

〈演奏は音ではない。演奏とは音楽の精神をとらえるための、ひとつの方法である。〉

 私たちはクラシック音楽の中に美を見付け、掘り出し演奏したり鑑賞したりする。それだけのことに浮き身をやつし、古典に回復するという精神や努力が、自身のアイデンティティの確立に深く関わっていることを忘れがちではあるまいか。つまり、別に音楽だけが崇高な魂へ到達手段でないのは誰しも先刻ご承知のことだ。
 ドガが『デッサンは形ではない。デッサンとは物の形の見方である』と言ったが、これを『演奏は音ではない。演奏とは音楽の精神をとらえるための、ひとつの方法である』と容易に変えられる。
〈1990年5月〉

 オーケストラという機能は、あらゆるジャンルの中で最も多くの人間が同時に参加でき、同じベクトルで感情や意志を創出できる手段である。したがってスポーツとは違い、定員や補欠がないという素晴らしく教育的な構造をもっている。だから無理をしてもハードルを乗り越える価値があるのだ。
 現在日本のアマチュアオーケストラは、その存在自体が日常的なものになり、悲壮な覚悟で開いていたコンサートは過去のものとなった。しかし、そうなればまたもや次のハードルが待っている。単なる音楽同好会でなく、もっと音楽的人間的で社会における存在価値や役割という根源的な問題と向かいあわなければならない、次のステップが到来している。
〈2008年6月〉

 アマチュアオーケストラのメンバーの中には、ほんものの音楽家(プロという意味ではありません)と、まだまだ技術的にも人間的にもほんものと言い難い人とが混ざり合っています。ほんもののオーケストラメンバーは、常に努力しています。常に仲間を思いやっています。常に自分の集団に誇りを持っています。常に自分の力のなさを悩んでいます。
〈1991年10月〉

 極言をすれば、アマチュアであることは自分の“業”をよく見つめ、とらえているということになります。稚拙な技術、劣った体力、貧弱な経験の中でもなおかつ〈創造に向かおうとする自分を愛しむ心〉、それがアマチュアなのだと思います。自己を救済し、また解放するには、自己の原点を見つめ続ける以上の方法はないではありませんか。
〈1976年7月〉

 “アマチュア”、この言葉は私たちの存在そのものであるはずなのに、なぜか普段着のように身体になじまない。“アマチュア”の語韻の中にあるかすかな侮蔑を感じるからだろうか。“プロ”という対義語との差別的な匂いをかぎとるからだろうか。
 “アマチュア”の語源であるラテン語のamare(アモーレ)は『~を愛する人』という意味で、素人とか未熟者を意味する語ではなかった。プロフェッショナルという専業化の層がなかった時代、名手であろうと凡庸な奏者であろうと一様に音楽愛好家であることに違いはなく、従ってすべてアマチュアであった。その後、技能職としての社会のニーズがあり、まがりなりにも生活の糧を得るようになってから、『愛好家=アマチュア』の分離が始まった。
 “アマチュア”は、このような避けられない人間史の道筋の中に不本意ながら位置付けられはしたが、それよりも我々にとってアマチュアであることが、音楽的未熟さへの言い訳であったり免罪符であったりと、自身を毀(こぼ)つ場合が多いことを無視できない。お世辞や空疎な褒め言葉にくすぐられると、だらしのないくらい舞い上がってしまったりはしないだろうか。そのくせプロには意地悪なくらい厳しい。そうした甘えがせっかくの活動をどれほど低迷させてきたか。『ほどほどに、趣味程度に、無理をせず、仲よく、楽しく、何事も民主的に』運営してきた結果が現在の状況である。仲間から異端視されても、集団が単なる『仲よしクラブ』に終らないための戦いを挑みたい。そうした内面的な戦いを避けない活動集団こそ、アマチュアからシチズン(市民)へと昇華していく人たちなのであろう。才能の貧しき者も、ミューズの神の裳裾に触れようと祈りにも似た努力を重ねることが、この活動の正しき装いであるからだ。
〈1989年10月〉

 「衣食足りて」いる時代に、自分が掛け値なしに納得でき、利害得失を無視できる何かによって自己を解放しなければ、一体何のための「生」なのだろう。自己が精神的な増殖をしようとする衝動を、何かに紛(まぎ)らせて暮らしているのではないか。
 生きていることへの実証に駆られる若者から、心の閃(ひらめ)きを感じた熟年まで、ライフサイクルのどの時点にあっても、その情熱をしっかりと、しかも優しく受け止めるような街でありたい。真の生涯教育は、自らの精神の自立によってのみ存する。
 空白ばかり生んでいるこの不連続な時代に、もう少し“柔らかく”、そして“勁(つよ)く”自己実現ができる場はないか。商業ベースに乗せられた催事や企画に乗っかるだけでなく、「何をしたらよいかわからないけど、何かをしたい、何かを創りたい」という人がどのくらいいるかで、その街の文化度はきまる。だからこそ、そうした街の精神史を綴っていくために集う空間が必要なのだ。
〈1994年5月〉

 市民オーケストラは、その街でどのような活動をすべきか。ただ単にプロの代替としてのアマチュアオーケストラであるだけではつまらない。ベートーヴェンの交響曲と市民をつなぐのはオーディオ装置でなく、市民で構成された質の高いオーケストラであるべきです。音楽的に質が高いこと、広角的な視野に照らして、異なるジャンルという豊富な色彩あふれる野菜畑の作物でコンサートを造型していく冒険心を持つこと、そして何よりも、市民に明るい話題が提供できる存在として社会的に認知されることを目指し、これからも全国各地の仲間と頑張っていきたいと思います。
〈2006年6月〉