【演奏篇②】クラブのOBを集め、市民オーケストラ結成
〈クラブ活動から社会人の文化活動へといっても、現実にはそう簡単なものではありませんでした。人を集めること、集まった人々と別れないようにすること。結局私のオーケストラ活動とはそういうものでした。〉
チャイコフスキー:交響曲 第6番「悲愴」(第4楽章)
指揮:森下 元康
豊橋リードフィルハーモニー交響楽団
第9回定期演奏会(1970年6月27日)
中学校のクラブ活動では時が経てば生徒たちは卒業し、そこで物語は途絶えてしまいます。音楽と真摯に向きあうことも、活動の中で共に修養を重ねることも、道半ばで引き離されてしまうことに森下は落胆しました。
そんな師弟が引き寄せられるようにして、OBを中心とした市民オーケストラを結成します。最初の10年はアコーディオンを中心とした「リード・オーケストラ」でしたが、それでもヴァイオリンに劣らぬ表現を必死に求めました。
結成7年目には東京でも公演しました。1971年当時の日本で、地方のリード・オーケストラが東京で公演をすることは、前代未聞の一大事でした。東京公演のチラシには、こんな祈りの言葉が印刷されています。
6年の歳月を、よりよい音楽を求めて情熱を燃やし、定期演奏会で、山間の村で、海辺の街で音楽を育んできました。そして考えたのです。私たちの音楽がこの地に根を張るためには、東京での確かな評価を得たいと。私たちのささやかな活動が価値あることで、私たちの若い音楽が美しいことのひとつだとするのならば、どうか私たちに皆さんの力を貸してください。私たちの東京公演が成功すれば、必ずや地方に音楽の芽が育ち始めるのだと思います。
森下は市民オーケストラ結成の頃を、こう回想しています。
絶対に忘れてはならないのは、教育効果は生徒との共通原体験のような核がなければ現れるものではなく、将来その活動や精神を何も敷衍(ふえん)でき得ないということである。市民オーケストラの核を学校教育の中に求めるなら、部活動しかその場がなかったのである。
こうして名もなき師弟の一団は、市民オーケストラ創りの第一歩を踏み出し、音楽的感興や知識技能を、離れ難い人情という“つなぎ”で一本の麺のように錬り上げようとしていた。
そして1965年6月、編成、楽器、技能等に眼をつぶれば、オーケストラの究極である血族集団的結束のみを頼りに、また“アマチュアの素朴さとプロの厳しさ”をモットーに、自分たちが頭を下げて集めた満員の聴衆の前で熱演をした。
当時なかったもの、ヴァイオリン、ヴィオラ、チェロ、オーボエ、バスーン、イングリッシュホルン、チューバ等、それに私の着る燕尾服もタキシードもなかった。平服の背広で指揮をとり、安物の証明のような汗のシミがハート型になって観客席から見えたという。
しかし自分たちの手になった文化活動の幕開けは、様々なストイックな条件を自ら課しての成果だけに、終演後団員はいつ果てるともなく抱き合って泣いていた。
今回の演奏は、市民オーケストラ結成6年目の公演からです。チャイコフスキーの哀歓を、十代の若きアコーディオン奏者たちが切々と謳いあげています。