【第9回】国際交流活動論②
〈地球が球体であることが、私たち人間が互いにどのように結び付いていくべきなのかの、ヒントを与えてくれるような気がします。〉
ともすれば、自分の親しい仲間だけで、小さいグループを作りたがるくせのある私たち日本人が、こうした精神的鎖国を乗り越えて、オーケストラを愛する各国の若い仲間や指導者に出会うことは、どんな教則本より素晴らしい体験や教訓を与えてくれるでしょう。
刻々と狭まっていく地球。もう距離も時間も私たちを分け隔てることはできません。しかし、気を付けなければならないのは、互いの心が敬愛で寄り添っていなければ、その間は無限の距離になってしまうということです。地球が球体であることが、単に天文学や地学の問題ではなく、私たち人間が互いにどのように結び付いていくべきなのかの、ヒントを与えてくれるような気がします。
〈1993年8月〉
画一的な枠をはめようにもそれぞれの国の文化や歴史や伝統はまちまちで、逆に言えばだからこそこのような交流に意味がある。
『地球規模』を目指すにはその国の数だけの常識があるのだから。その落差をうめてくれるものは唯一、青少年や音楽への熱意であろう
どの国であれ、真の文化的土壌の中から生まれてくる青少年活動の奥行きというものは、単に技術を競い合ったり、数の多さを誇ったりすることではなく、その国固有の伝統や文化という横軸と、音楽を表現することへの衝動や情熱という縦軸の座標の中に存在するものである。
したがって、青少年オーケストラのような文化活動は、その国にとって異例な存在でなく恒常的な存在にまで敷衍(ふえん)されていなければならない。そうした観点に立てば、全国からオーディションによって集まった俊英で編成するオーケストラは、それはそれなりの価値はあろうが、あくまでひとつの事象としての存在である。音楽への憧憬や情熱はオーディションしようがないからだ。私たちが目を向けなければならない対象は、天才肌の少年少女ではなく、どの街角でもみかける普段着の子供たちであり未来の一般大衆であると同時に、将来その国の文化的分母になる青少年なのだ。
〈1993年8月〉
国や民族によって、気質や音楽に対する感性が異なるのは当然ですが、だからこそオーケストラという共通項で国際交流をすすめることは、自分たちの音楽活動がどのようなレベルや方向性を持っているのかを明確にチェックできる座標のようなものです。オーケストラの機能は、人類が生み出した最大人数の協力作業を可能にするものです。100人でも200人でも、なかには「千人の交響曲」などという曲もあります。しかし私が最も注目すべきだと思うのは、スポーツの団体競技のような補欠がないことです。さらに言語の壁が全くありません。ベートーヴェンの「運命」は地球上どこでも同じです。南米風とかアメリカ的とか東洋風またはドイツ魂的「運命」などというものはありません。その楽譜の解釈はあくまで演奏する人や集団に対して、その人々の努力と深い洞察を要求しているだけです。さらにクラシック音楽というジャンルは、時代の荒波にもまれて生き残った作品ばかりですから、貴重な文化遺産であることは当然としても、ある意味では、将来私たちが人間としてよりよく生きていくヒントを示してくれるものかも知れません。オーケストラという集団の背後にあるこのような地球規模の共通項が、WFAOのような世界組織の存在を可能にしています。
〈2007年6月〉