【演奏篇④】JAOの仲間とともに、音の泉の広がりを
〈共通の悩みを持った者同志が語り合い、励まし合うことによって、増々それぞれの地域文化に貢献することを念願して、このフェスティバルは開催されます。〉
森下は「東京公演」での交流を足がかりに全国に声をかけ、列島の連帯を求めて「日本アマチュアオーケストラ連盟(JAO)」を豊橋の地で設立します。23団体でのささやかな船出でした。
JAO設立の経緯を、森下はこう記しています。
文化関係の他の分野にはほとんど全国組織があり、それも法人化されているのに比して、オーケストラの分野の立ち遅れはどうした理由によるものだろうか。ひとつには団体数が少なく安定維持が困難であることは当然であるが、私は、オーケストラ人間の閉鎖性、独善性、よく言えば孤高性、狽介固陋性(ばいかいころうせい)を考えずにはいられない。誰かが道化役をやらねば舞台が回らないと思い込んでの連盟設立であった。
文化関係団体の事務局は、そのほとんどが東京にある。ひとり当連盟のみが豊橋という地方中都市にあるのだが、地方の文化を論じ活動していく目的ならば、地方都市に本部があって当然だといささか牽強附会(けんきょうふかい)のきらいはあるが、胸を張って活動している。
シベリウス:交響詩「フィンランディア」
指揮:森下 元康
JAOフェスティバル・オーケストラ
第1回全国アマチュアオーケストラフェスティバル「豊橋大会」
(1973年9月2日)
今回の演奏は、JAO設立の翌年に開催された、第1回全国アマチュアオーケストラフェスティバル「豊橋大会」の記念すべき第一声です。
全国各地から集ったメンバーで編成された「フェスティバル・オーケストラ」を森下が指揮したこの演奏を、雑誌『音楽の友』の記事はこう伝えています。
心を合わせて、と簡単にいうが、こんなちりぢりばらばらな顔ぶれが、それも楽器も奏法も大変ちがっていて、心を合わせるなどということはどうしたって不可能にちかい。だが、中学校の国語教師という森下元康氏は、この奏者たちが心を合わせる指揮をしたといっても通り一遍の讃辞ではないはずだ。ぐっと重くのしかかる金管群、全オーケストラの圧力にも応えるティンパニー、熱く燃え上がってゆく弦楽陣、などとすべての楽器がシベリウスの「フィンランディア」に結集したのだから凄い。
それに、森下氏自身が中心になって、地方の数あるオーケストラの大同団結がなされたのだった。それは演奏そのものに証明されている。もし音楽が空騒ぎに終わったとしたら、こうしたオーケストラは烏合の衆にしかすぎなかったといわなければならない。事実は一つの音楽に高鳴った、見事なオーケストラになりえていたのだった。
日本のアマチュアオーケストラ活動に、新たな息吹が吹き込まれた瞬間でした。
東京公演、JAOの設立、フェスティバルの開催、ヴァイオリンへの転換という大事業を同時進行していた森下元康、まさに最充溢期の演奏です。