【第2回】アマチュアオーケストラ活動・文化活動論②

〈幾星霜を経てきたクラシックの作品群の中に、哲学書にも書かれていない人生の真理を将来青少年が読み取るために、私たちはささやかな努力をしている。〉

 純粋に私心なく、自分または自分たちの評価を客観的にくだすことができ(妙に自虐的にならず)、この文化活動の原点を見付け出すのが私たちのライフワークではあるまいか。
 プロオーケストラにかかわる人々は、その天性の音楽性にものを言わせ、音楽そのものに打ち込み賛辞を受けることも、自ら自身の音楽に酔うことも可能である。しかし音楽が好き、オーケストラが好きというだけで音楽に接しているアマチュアは、常に自分の非才凡夫ぶりと対決しなければならず、音楽とのかかわり合いを幼いながら哲学したり、分析したりせざるを得ない。
 家族ですら理解しあうのが困難なこの時代に、こんなにも幅広い年齢層で構成されるオーケストラという集団がなぜ成り立っているのか。音楽が芸術の分野だけに存在理由があるのではないという証明がそこに潜んでいるような気がする。
〈1986年11月〉

 青少年にとって音楽活動が単なる自己顕示の場に過ぎないとしたら、音楽そのものも、感情や情動の発現だけにとどまるものになってしまう。青少年は、その年令に応じた子供なりの史観や世界観に似たような意識を、その能力に関係なく保持しているものであるが、それは理性的に整理されたものではなく、あたかも未完成のジグソーの断片のように乱雑にほうり出されているだけである。彼らは音楽産業や洪水のような音楽情報の中で幼い感性の触感を精一杯伸ばし、ジーンズをはくように音楽で装う。しかし肝腎の内的世界は彼らの発育する身体のようには成長しない。
 私はクラシック音楽がどのジャンルの音楽より優先すると声高に言うつもりはないが、感情を野放しにしているだけのものにはとうてい組みしかねる。幾星霜を経てきたクラシックの作品群の中に、哲学書にも書かれていない人生の真理を将来青少年が読み取るために、今私たち大人がその読み取りかたの手ほどきをしようと、ささやかな努力をしているのだと自認している。
〈1990年3月〉

 ただ単に子供を集め合奏をすることでは文化活動とは呼べない。青少年に対して教育的な働きかけをしようとすれば、当然広義のカリキュラム(教育課程)の設定が必要となる。ジュニア・オーケストラは一般人のオーケストラと異なり、ただ単に音楽を享受すればよいというわけにはいかず、発達段階の中での情操の陶冶や自己の充実啓発等を目指さなければならない。しかし、青少年であろうと大人であろうと、こと音楽の世界では未熟な技術からは何の感興も得られない。ジュニア・オーケストラにしばしば見られる悪循環は、演奏技術の向上をさしおいて、楽しむことや仲間づくりの方に力点が偏ったりすることである。そのためにも漫然とした方法によってオーケストラづくりをせず、その土地や団員の状況実態を把握した独自のカリキュラムを持つことが大切だ。
 指導者は自ら自己の能力の最大限にまでアンテナを広げ、音楽技術や青少年の人心収攬(しゅうらん)や財政、さらに人の登用といった運営上の細部までを考えて、自身の手になる“コア・カリキュラム”(特定の領域、問題を核にして教科の総合をねらう考え方)を持たねばならない。なぜなら、各々の団の事情がまさに人の顔のように異なり、自団の特色をいやがおうでも意識しなければ存在理由そのものが希薄になるからである。この場合の“コア(核)”は活動理念とか基盤、さらに具体的にはその団固有の慣習や気質まで含むとらえ方をしたい。つまり“コア”のないような集団はさして集人能力がないし、自己中心的になりがちな青少年を繋ぎとめておくことは難しい。指導者が自団の弱点から目をそらさず、欠陥を自覚していることで、ジュニアオーケストラは一気にパワーアップする。
〈1990年3月〉

  提言したい。果たして、新しい時代にふさわしいアマチュアオーケストラのアイデンティティ(自己同一性)はあるのか。不勉強で能力不足、そして日々の生活の滓(おり)の中に埋もれがちな我々アマチュアの音楽に、そもそもアイデンティティは存在し得るのだろうか。猛省して、自己解剖すべき時は今ではないかと思う。
 プロ最悪の条件とアマチュア最良の条件は以前とは比較にならぬほど似たものになってきたとすれば、我々アマチュアがプロを目指して苦闘していた時代の終焉をひょっとすると示唆してはいまいか。だからといってプロの質が下った訳でも権威が落ちた訳でもないのだ。音楽的に優れたアマチュアであれば、プロの人たちに対する厚い尊敬と信頼を有しており、“プロがどうの、アマチュアがどうの”といった低次元の妙な競走意識を超えた関係であり、単なる“手本”から“仲間”へと変わってきた。
 更に“プロを小馬鹿にするようなレベルの低い”アマチュアが少なくなりつつあることと、プロだからといって無条件で同調しない眼が育ちつつあり、プロ演奏の技術のみならず、音楽観まで知ろうとする“競合”の時代に入ったと言いたい。
 今や理念を持つことが必要不可欠の時代であることを予感しなければならない。ことに地方の場合、アマチュアオーケストラがそのローカリティを生かし、“新しいその街の顔”になるべき時代なのである。
 アマチュアオーケストラの面白さは、何と言っても音楽創りの過程にある。ひとつの楽曲を構築していくための多様なアプローチを負担に感じたり、義務感や薄っぺらな自己顕示の段階で処理することなく、そのオーケストラ固有の音を追求していくべきである。つまり“普通名詞”でなく“固有名詞”の音楽であり、オーケストラでなければならない。そのために、よりよい主宰者や指導者の不足という問題や、地方都市に見られがちな音楽スノッブの介在を排するといった、厄介な手続きを経なくては強固な基礎はできない。
〈1980年7月〉